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2016/04/25

地震から10日

 一連の熊本地震の最初の震度7の揺れから10日あまりが経過した。地震による直接的な犠牲者は50人近くに達し、関連死と見られる人はおよそ10人となっている。
 連日のニュースでは、時折余震の速報により中断されながら、行方不明者の捜索の様子、避難所の様子を伝えている。ああまたこの光景か、という感じだ。「天災は忘れたころにやってくる」というが、忘れるどころか記憶に鮮明に残っている。
 中でも、地震の規模や、揺れの波状攻撃、10万人前後という避難者の数など、12年前の新潟県中越地震と似た印象を受ける。そういえば、クルマで避難生活を送る人の「エコノミークラス症候群」という言葉を初めて聞いたのも、中越地震の時だった。
 新潟県中越地震の死者は68人とのことだが、そのうち地震の直接の犠牲者は16人。それ以外の52人は、避難生活などの災害関連死である。この直接死と関連死の比率は、熊本地震の犠牲者の暫定値のそれと完全に逆転している。もちろん熊本地震の今後の直接死は不明者数名の遺体発見の分と見込まれるのに対し、関連死はこれからが本番。上限がわからない。それでも、犠牲者の8割以上が関連死というところまでには達しないように思われる。
 その比率の差は、避難生活の過酷さの違いだろう。中越地震と熊本地震のそれぞれの発生した季節はちょうど半年ずれている。寒冷地で豪雪地帯の新潟県の内陸部の晩秋から冬と、九州熊本の春から初夏。その言葉、文字から伝わる印象は雲泥の差だ。
 強い揺れでダメージを受けた家屋が倒壊する程の積雪は避難者が仮設住宅に移った頃であるが、地震直後の晩秋の新潟県中越地方は、きっと雨が降る日が多かっただろう。そんなことを思いながら、気象庁のサイトで長岡や十日町の気象データベースを見た。以外にも、2004年の10月下旬から11月下旬にかけては、最高気温が20度を超える日が結構あり、降水量がゼロの日も結構ある。もちろん、降水を確認された日の方が多いが。そういえば、台風多発の暖秋だった。9月の中旬までは30度を越える真夏日が観測されることもたびたびあった暑い秋。体感としては、10月の気温の数字異常に寒く感じられたのではないか。さらに11月中旬以降は雨の降らない日はわずかとなり、気温も下がる。
 避難生活が3週間を過ぎ、先がが見えず、疲労もたまる一方という中で連日の雨。これでは避難所やクルマの外に出歩く気にならず、エコノミークラス症候群のリスクが高まる。
 神戸や淡路島の真冬、東北や北信・中越の春先などと比べても、今回の熊本地震が起きたときの気候には恵まれていたのかも知れない。
 しかしながら、度重なる強い揺れにより道路の復旧や住宅の再建、仮設住宅の建設などの対応が遅れ、避難生活が長引く可能性がある。そして、あとひと月もすれば、九州は蒸し暑い梅雨の時期となる。
 TVのニュースなどで避難生活の様子が伝えられる中で、なんといっても辛そうなのは高齢者だ。環境の変化への対応力や暑さ寒さへの耐性が低い。今の時期は、晴れれば最低気温と最高気温の差が10度を越えて当たり前、場合によっては20度にも達する日もある。また、幼い子どもを抱えた人の苦労も伝えられている。
 一方で、うまく避難生活を送っているように見受けられる人の姿もある。その代表は、キャンプ用のテントで寝泊りしている人たちだ。雨の日にテントの中にいる人へのインタビューで、「雨音で寝つきが悪くなるし、地面から冷たさが伝わってきますね」という言葉を引き出していたが、表情は割合余裕があるように見えた(そうでなかったらごめんなさい)。
 装備を持っているかどうかということだけでなく、やはり個々の気持ちによるところが大きいのではなかろうか。
 キャンパー同士で話をしていて、「雨が降るとキャンプは嫌だね」という意見と「大風さえ吹かなければ、雨でもなんともない。強いて言えば、濡れたテントを撤収するのが嫌なくらい」という意見に割れたことがある。キャンパーでも雨への耐性はそれぞれということか。ちなみに私は後者である。
 もちろん、慣れていない人、特に高齢者には、テント生活など全く受け入れられないだろう。身をかがめて狭い出入り口を通過するなど、相当の苦痛に違いない。
 今回の地震のあと、農業用のビニルハウスやバスの待合室で避難生活を送る人々の姿も報じられた。いずれも高齢者で、悲惨な様子を伝えようという意図が感じられた。でも、不謹慎を承知の上で述べるが、北海道を自転車で旅したときのライダーハウスや野宿の夜のことを思い出した。被災者の皆さんには大変申し訳ないが、楽しかった思い出だ。
 もちろん、避難生活を楽しそうだ、なんていうつもりはない。帰ろうと思えば家に帰れる気ままな旅人と、被災者の皆さんを一緒にするのはいささか乱暴で、失礼な話である。自分が好んで選択している場合と、そうせざるをえないのとでは大きな違いである。
 ただ、正直なところ、自分は避難生活への耐性があるほうかもしれないと思う。こうした耐性を身につけ有事に強い人間であることも、災害への備えであるように思う。

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ツツジの花の命は短いの

 15日の新聞に宮津の滝上山のミツバツツジが満開だと報じられた。実際通勤の時にふもとから見上げると、斜面を花が埋め尽くしていた。
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 16日の土曜日は所用があり、17日の日曜日は天気が悪そうだ。だが、16日夜に降り出した雨は、17日朝の内には止んで昼前から日差しが照り付けた。強い南風が残ったが、そのおかげで雨でぬれたところが早く乾く。この頃雨はあまり降っていないから、足元はそんなに悪くなっていないはず。
 というわけで、17日の午後に行ってみた。強い風のせいで地面には散った花びら。2日前に見たよりも、花は疎らになった感じだが、それでも楽しめる咲き具合だ。風は徐々に収まってきたのと、南風の影響を受けにくい北斜面のため、とても穏やかな雰囲気。標高120mほどの小ピークの展望台からは、宮津市街や天橋立、丹後半島の伊根などが見える。海と空の青さも鮮やか。朝までの荒天のせいか、新聞に出た後の日曜にしては人出が少なめ。
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 翌日には花はかなり散っていて、どうやら17日が最後の見ごろだったようだ。さらに数日たった後には、ほとんど見る影もない。
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2016/04/19

熊本地震

 まずは、14日夜からの熊本県や大分県を震源とする一連の地震により、被災された方にお見舞い申し上げます。また、残念ながら亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
 14日21時半頃、NHKのニュースウォッチ9を観ていたら、九州での地震速報が入った。番組開始直後に字幕で伝えられた東京での震度2の地震と同程度のものかと思ったら、鈴木奈穂子キャスターが声を張り上げての「震度7を観測しました」の言葉を聞いて、頭の中に「!」マークが浮かんだ。これはただ事では済まないレベルの揺れだ。阪神淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震、新潟県中越地震、東日本大震災を起こした東北地方太平洋沖地震などが思い浮かぶ。実際TVからはそれらの地震名、災害名を挙げ、これらに匹敵する揺れだと付け加えた。
 その熊本県を震源とする地震の規模はM6.5(発生直後にはM6.4)で、震源の深さは11km。M6.7で深さ13㎞の新潟県中越地震と似たデータである。さらに、そのあと強い余震が頻発するという点でも共通している。しかし、震源の地形が大きく異なった。
 M6.5は「巨大地震」や「大地震」よりも下の「中地震」と呼ばれるクラスであるが、今回の14日夜の地震の場合は直下型でしかも震源が浅かったため震度は最大級の7を観測した。
 しかし、震源となった断層は水田や麦畑の中に位置していたことと、平野部であることが重なって、そこから最も近い集落である益城町の中心街に被害が限定されたのは、不幸中の幸いだったかも知れない。亡くなった方には申し訳ないが、最大震度7で関連死を除く直接的な犠牲者がひと桁ということは、せめてもの救いだった。
 しかし、そんな思いも28時間後に打ち消された。度重なる余震に続き、16日未明にM7.3の地震が起こり、こちらが本震と訂正された。
 マグニチュードの値で表される地震のエネルギーは比例関係でなく指数関数で増減する。概ね、マグニチュードの値が0.2増加すると地震のエネルギーは2倍。6.5と7.3の差は0.8、つまり0.2が4つ分。2倍の4段重ねということは、2の4乗で16倍のエネルギーだ。
 被害の範囲は劇的に広がり、熊本平野のみならず阿蘇山の山域まで及んだ。阿蘇の外輪山の唯一の隙間、カルデラ内の川がひとつにまとまって熊本平野へと流れる出口の渓谷などで大規模な土砂崩れが発生した。
 新潟県中越地震や2011年3月12日の長野県北部地震など、傾斜地での大きな揺れは土砂崩れにより道路や建物、さらには人的被害を増大させる。そして、クルマや家ごと土砂崩れに飲み込まれると捜索に時間がかかり、被害の全容がなかなか見えてこない。犠牲者の数が、じわじわと増加していくパターンである。
 また、平野部の建物の被害も、拡大している。16日のM7.3の本震の最大震度は6強とのことであるが、これは震度計の設置されている地点の中での最大値であり、震度計の置かれていない場所では震度7との揺れがあったのかも知れない。実際、建物の倒壊の様子から、震度7相当と思われる地点もあったという専門家の見解も報じられた。もちろん、度重なる余震の波状攻撃により、何とか持ちこたえていた家がつぶれてしまう、ということも起こっている。
 17日の時点で、余震の数は新潟県中越地震を越え最多となった。犠牲者の数も19日現在で40余名。今後の捜索による発見や避難先での関連死(持病の悪化やエコノミークラス症候群など)が加わり、68名という新潟県中越地震に迫る勢いだ。なのに、なぜ政府はなかなか激甚災害の指定をしないのだろうか。
 また、避難生活を送る人々の姿を見て、こうした場面で活躍するのはキャンプ道具と二輪車だ。自動車(四輪車)は、たくさんの燃料を必要とするし、通れる道は限られるし、人々が集まる支援物資の受け取り場所には乗り入れることができない。燃費がよく小回りが利く小型自動二輪や自転車がいい。また、自動車で寝泊りするよりも、テントの方が快適だ。シートをフルフラットにできる自動車ならいいが、背もたれを倒した程度では、連日の寝床としてはきつい。その点テントは設置場所を選び完全に平らで脚を伸ばして寝られる。他人の視線も気にならない(駐車場にぎっしり停めたクルマの中では、隣のクルマの人の視線が気になる)。スリーピングマットを使えば地面の細かい凹凸や冷えを遮断できる。ランタンやストーブ(コンロ)があれば、電気やガスが止まってもかなり快適に過ごせる。もちろん燃料のカセットや水、食料を備蓄しておく必要がある。
 活断層はどこにでもある。どこで地震が起こってもおかしくない。

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2016/04/17

スキー動画集

会津の雄国山

信越トレイル鍋倉山

Slide&Ride扇ノ山2016

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2016/04/13

なごり雪と樹氷の扇ノ山

 2016年の残雪シーズンはあっという間に過ぎてしまう。氷ノ山の雪は3月初旬で終わってしまい、昨年に引き続いて滑り損ねてしまった。もう中国山地に残された山は扇ノ山しかない。
 兵庫県側の上山高原までの除雪はすでに完了しているようだ。でも、鳥取県側の河合谷高原から入山してみよう。おそらく、標高880mのカーブの日陰の残雪までクルマで入れるだろう。わずかな残雪をクルマは越えられないが、その先自転車が使えるはずだ。河合谷高原の道は日当りがいいので、水とのふれあい広場の登山口まで自転車で入れるだろう。
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 アプローチで神鍋高原を越える。寒の戻りで、奥神鍋スキー場の最上部ゲレンデなど、標高900mから上が白くなっている。地面の白は雪、林の白は樹氷だろう。おそらく扇ノ山も同様の状況と思われる。
 国道9号線で湯村温泉を経由し鳥取県へ。朝まで降っていた雨は止んで、薄日が射してきた。県境を越えてすぐに南に入る十王峠は道が悪いので、鳥取市よりに少し進んで、県道197、37号線を回り込んで雨滝集落へ。そして、河合谷高原への道へと進む。十王峠への道はバリケードで塞がれ、冬季閉鎖とのこと。おそらく雪はもう解けているのだろうが、倒木や法面の崩落などが未処理なのだろう。何せ、普通自動車で道幅いっぱいの狭路なのだ。
 予想通り、標高880mのカーブの日陰の残雪手前までクルマで入ることができた。そこまでの道中、はるか行く手の山は白くなっていたが、路肩にはほとんど雪がなかった。スキーがどれだけできるか心配になってくる。
 道を塞ぐ残雪には果敢に挑んだ轍があるが、5m程で途切れている。雪の厚みは最大で30cmほど。そして、50mほど先でまた雪は切れ、完全にアスファルトが露出している。目の前のわずかな残雪さえ越えたら、という気持ちになるが、クルマはそれを乗り越えることはできない。そこで、自転車の出番なのだ。
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 自転車にスキー板を積載してスタート。自転車を押して残雪を越える。50m先のアスファルト路面で自転車にまたがる。その先は、日当りのよい高原に出るのでずっと雪はない。スキーブーツでペダルを漕いで登る。前方のまっさらな白い色の峰を目指す。
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 しばらく登ると道路脇のブッシュが白い。小さな樹氷が付いている。しかし、残雪が少ない。ある程度登ったら、何度か残雪の上を自転車を押すつもりでいるのだが、ずっとアスファルト路面だ。水とのふれあい広場の500mほど手前に分厚い残雪が道を塞いでいた。1mを越える高さの雪の山にキックステップで足がかりを作りながら自転車を乗り上げて、100mほど先のアスファルト路面に降り立つ。そしてアスファルト路面を漕いで水とのふれあい広場に到着。なんか景色が違うと思ったら、東屋が撤去されていた。
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 3.3kmで標高差190mの登り。平均勾配6パーセント近いヒルクライムだが、特別に低いギア比のおかげで、スキーブーツでも乗車のまま登ってくることができた。
 登山口にも全く雪がない。出だしの急な階段を登るのが嫌で、段々畑に向かう農道のダブルトラックへ行ってみる。雪がない。自転車のまま進む。300m程で残雪。自転車はここまでとしよう。スキー板を自転車から降ろし、自転車は念のためワイヤーロックで木につないでおく。
 残雪がずっと続いていることを期待しながらも、とりあえず様子を見るため板を担いで歩き出す。しかし、残念ながら雪はすぐに途切れ、土と草の上を歩くこととなる。枯れ草に覆われた畑の上にも全く雪はない。
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 畑を横切って登山道へ向かうが、雪がないので藪に行く手を阻まれる。畑の縁を行ったり来たりしながら、藪の薄いところを探す。そして、相手の弱点と思われるところに戦いを挑む。ブッシュとくんずほぐれつ格闘の末、登山道へと出た。雪はない。もうこの先に藪漕ぎはないので、板をザックにくくりつけてもいいのだが、すぐに履けることを期待して板を担いで歩く。
 すぐに上山高原方面、小ヅッコ登山口からの道が合流。その後少しずつ雪が出てきたが、薄い残雪の上に薄い新雪。石や根っこや落ちた枝が顔を出しているので、まだ板をつけられない。これだと山頂の東斜面はとても滑れそうにない。そこが滑れなければ、山頂まで行く値打ちはない。大ヅッコの手前の斜面は滑れるだろうから、今日はそこを目標としよう。なんと、平年の雪なら5月の連休明け、つまりひと月先の状態となってしまった。せめてもの慰めは、樹氷と新雪が白く美しいこと。そうでなければ、土の露出はもっと多く、残雪は黄砂にまみれて汚く、悲惨な状態だったことだろう。
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 新雪の上に足跡がついている。ということは、今日の入山者がいるわけだ。河合谷高原側のクルマは私の1台のみだったので、おそらく上山高原からだ。足跡は2組。片方は小さい足なので、女性か子どもだろう。
 1時間近く歩き大ヅッコ手前の斜面が見えてきたところで、前方から話し声が聞こえた。30代くらいの男女連れだ。挨拶をして、しばし立ち話。予想通り、上山高原からの入山で、菖蒲池の手前まで除雪が進んでいたそうだ。となると、無雪期の登山口までの車道歩きは2kmたらずとかなり短くなるが、あちらは日当たりの関係で雪解けが遅いので自転車は有効ではない。まあ、河合谷からという選択に間違いはなかったことにしておこう。「樹氷がきれいで、ラッキーだったね。気をつけて」と言って別れる。
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 大ヅッコの北側斜面の下部でザックを下ろし、本日初めてスキー板を装着。ブナの小枝が出ているので、自由自在には滑れそうにない。アクションカメラを出して動画撮影をする。ヘルメット前方、ヘルメット後方、ストックと色々変化を付けて撮影。ステップソールの板なので登り降りが楽なのはいいが、小枝に阻まれ窮屈な滑り。
 さあ、とっとと引き返そう。山頂東斜面は滑れそうにないし、先程すれ違った人によれば、大ヅッコの南斜面も雪はないそうだ。板を外し、今度はザックに固定する。
 上山高原方面との分岐点手前で、残雪でブッシュが押さえられているところを見つけ畑に下りる。農道を歩いて自転車に再開。下りで、ザックに板を付けて、藪漕ぎもなくて、35分ほどで降りてきた。自転車に板を固定して、さあ下ろう。農道のダート区間は荒れていて、さすがに板を装着したオンロードタイヤの自転車では難儀する。でも、アスファルト路面に出たら、もうこっちのもの。残雪を乗り越えたり、眺めのいい場所から鳥取市街や岩美海岸、那岐山や見えているのかどうか良くわからない大山の写真を撮影しながらも24分でクルマに戻った。スキーは余り楽しめなかったが、自転車ツーリングとしては楽しかったので、このコースを選んでよかった。
 さあ、山頂に行かなかったので時間に余裕ができた。鳥取市へ足を伸ばして買い物をしてから帰ろう。今シーズンももう終わりだな。2000年のゴールデンウィークに初めて滑って、2004年から毎年扇ノ山でスキーシーズンを締めくくっているが、今シーズンは2007年の春に次ぐ雪の少なさだった。

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黄砂が来た

 この3日前(7日)の強風が黄砂を運んできた。
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2016/04/12

北国縦断被災地を巡る旅(最終日)

初 日 1.日本海から太平洋へ  2.田老「学ぶ防災」  3.宮古「末広館」
2日目 4.重茂半島の姉吉集落  5.城山から大槌を見下ろす  6.波板「風の電話
     7.釜石鵜住居と陸前高田  8.リアス唐桑ユースホステル

3日目 9.唐桑ビジターセンター「津波体験館」  10.気仙沼線と南三陸
     11.福島第一原発帰還困難区域へ  12.会津の里ユースホステル

4日目 13.会津の雄国山  14.小千谷・山古志、新潟県中越地震の被災地へ
■最終日 15.信濃川遡上信越ドライブ  16.信越トレイル鍋倉山  17.日本海側ロングドライブ

15.信濃川遡上信越ドライブ
 7時に朝食、7時半に旅館を出発。今回の旅では旅館とユースホステルにそれぞれ2泊ずつ。ユースホステルでも、その日のホステラーが1人だけだったり、私以外が皆家族またはグループだったりしたため、4泊とも個室、さらに和室に布団を敷いて寝る形式だった。私にとっては安眠できる状態のはずなのだが、毎日盛りだくさんのスケジュールでかなり疲れている。眠りも浅い。ぐっすり眠って回復できた若い頃が懐かしい。
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 国道117号線には乗らずに、信濃川の左岸の県道49号線を行く。小千谷の中心街から南に、田園地帯へと進む。前方に緩やかな勾配の棚田が積み重なっているのが見える。まるで劇場の舞台から客席を眺めるようだ。その客席の最後列の向こうは、絶壁のように切れ落ちている。信濃川の河岸段丘だ。標高差100m余りを信濃川に向かって駆け下りる。この景色が好きで小千谷に来るたびに通っている道だ。ちなみに、この先松代を経由して1時間半ほどで上越までいける。西日本から北陸自動車道で小千谷にアクセスする場合、最寄のI.C.は柏崎だが、余り所要時間が変わらないので上越I.C.を利用して松代経由のこの道がお気に入りだ。
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 しかも今日は前方に白い峰々が浮かぶ。最も大きく存在感があるのは越後三山の越後駒ケ岳。あとの二つ、中ノ岳と八海山も、そして巻機山も見えているようだ。霞んでいるのが残念だが、それでも絶景だ。
 田舎道を南西に進む。十日町の市街地も対岸の火事ならぬ、対岸の混雑でスイスイと抜ける。旧中里村(現十日町市)のJR飯山線越後田沢駅で信濃川を渡り、国道117号線へ。国道沿いには、基礎が高く玄関へは階段でアプローチする家が見られ、雪国を感じさせる。上げ底された家の基礎は倉庫などに活用されているようだが、バリアフリーはどのようになっているのだろうか。また、道路の幅は広がり、クルマが通れるほど広い路側帯が見られる。これも雪国ならではの風景。田んぼの中や川沿いの道路なら道路の外に雪を落とすことができるが、両側に家や店が並んでいたり、切り通しだったりする場合除雪の雪を積み上げるスペースとなるわけだ。
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 信濃川の北側には、関田山脈の山並みがそびえる。急な山肌が削られている箇所が見られる。中越地震の被災地によく見られた景色だ。そういえば、東日本大震災の翌日の2011年3月12日に起こったマグニチュード6.7の地震の震源がこの辺りだ。気象庁による正式な命名はされていないが、長野県北部地震という呼び名が最も通っているようだ。ただし、新潟県との県境付近なので新潟・長野県境地震、信越地震ともいうらしい。あの山肌の削られた原因が、その地震のつめ跡かどうかはわからないが、
 新潟県から長野県に入り、右手を流れる川は千曲川と名前を変える。関田山脈は新潟と長野の県境となる。信越トレイルだ。
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 千曲川を左岸に渡り、野沢温泉村から飯山市へ。関田山脈の麓の農村風景を移動し、鍋倉山の登山口の温井集落へ。80kmほど、2時間の移動。
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16.信越トレイル鍋倉山
 好天の春スキー日和で、集落奥の除雪限界地点には10台以上のクルマがずらりと並んでいる。その端は集落にまで達している。私とほぼ同時に到着した2台もどこに停めようかと迷った末に間隔の開いた箇所に縦列駐車している。私は、除雪の限界点近くの田んぼの脇のスペースに停める。ぬかるんでいて敬遠されている場所だ。田んぼはまだ雪があり農作業にはまだ早い時期なので迷惑にはならないだろう。
 真っ先にスキーブーツに履き替えて出発の準備。ブーツは泥んこになるが、この後雪できれいに磨かれる。下山後は、この陽気でぬかるみは乾いているだろうし、周囲のクルマがいなくなっているだろうから足場のいいところにクルマを動かして撤収すればいい。
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 未除雪の県道95号線の車道歩きから始まるので、シールを貼らずにステップソールを利用して行く。曲がりくねった道をショートカットする道は雪解けによりブッシュに妨げられて難儀するという報告をネットで見ているので、遠回りでも車道を行くほうがいい。雪解け、あるいは除雪が進んでいれば自転車の利用を考えていたのだが、出だしで2ヶ所雪が切れているだけで、道はずっと雪に覆われている。
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 氷結が解けかけている田茂木池を回りこんでそろそろ車道のショートカットを試みようかと、シールを出す。昨日の雄国山でうまくいかなかった方でなく、テールフックを付け替えて長さの調整ができるもの。これをはって法面に取り付く。
 標高800m付近は「ドウマン平」と呼ばれる平原。その北西側に立ちはだかる尾根に登る急斜面がこのコースの最大の難所。標高差200mの一枚の急な壁で、一面にブナが生えているのでコース取りも自由自在にとはいかない。
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 雪はざくざくに緩んでずり落ちそうになる。気付けば、片方のシールのテールフックが外れていた。長さの調整が甘く張力が足らなかったようだ。調整のゴムベルトの穴の位置をかえ、一段階短くする。しかし、シールと板の間に雪が入ってしまいそのあとも難儀する。ああ、昨日に続いてシールが不調だ。そして、連日の疲労もあり、急斜面との格闘に2時間も費やしてしまった。滑り降りてくる人たちの姿が見える。雪が重そうだ。
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 尾根に上がると、反対側の谷が見える。そちらは巨木の谷と言われ、中でも森太郎と呼ばれるブナがある。最初にこの山に登ったのは、2004年の4月下旬、飯山市の野外活動の施設「なべくら高原森の家」のクロスカントリースキーツアーに参加してのことなので、ガイド役の森の家の職員から色々と教えてもらいながら登ることができた。森太郎も教えてもらい、12年経った今でもその姿を見分けることができる。ちなみにこの山は、9年ぶり4回目だ。
 尾根比較的広く勾配も緩んで、随分楽になる。腹が減ったので、昼食の休憩をとる。
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 10人以上のスキーの大集団が滑り降りてきた。彼らが降りすぎたあとの雪面は、午後のスキー場のゲレンデのようだ。スノーボードのパーティも降りてきた。入山している人は何らかの滑走用具を利用していて、8割がスキー2割がスノーボードとスキー場と勢力が逆転している。まあ、県道歩きもあるからね。滑走用具でありながら歩行の道具でもあるのがスキーのメリットだ。
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 出発から一般の人の倍近い5時間以上もかけてようやく登頂。しばし360度の絶景を眺める。関田山脈越えの関田峠、そして光が丘牧場の向こうには上越平野。ごつごつした山頂は、菱ヶ岳だ。妙高山は西に傾いた日の逆光だが、そのどっしりとした姿が見て取れる。長野側は野沢温泉スキー場の毛無山が目立つ。野沢温泉スキー場の下部のゲレンデはすでに雪解け。上ノ平高原はゴンドラも動いて営業しているようだ。カメラでズームアップすると、蟻んこのような人の姿もみえるが、スキーヤーなのかスノーボーダーなのか区別はつかない。
 さあ、シールを剥がして滑降準備。登ってきたルートではなく、北側の黒倉山との鞍部へ滑り降りる。森の家のツアーで教えてもらったコースだ。出だしはそこそこの急斜面。12年前の森の家のツアーは、前述のとおりクロスカントリースキーツアー。中にはテレマークスキーの参加者がいたものの、ガイドを含めクロスカントリースキーで標高差700mを登り、この急斜面を滑り降りていた。私はダブルキャンバーのスチールエッジ付きバックカントリースキー板にソフトブーツ。今思えば、なかなか果敢なツアーだった。現在森の家では、スノーシューでの登頂ツアーはしているが、スキー登山のツアーはない。
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 鞍部の方面はトレースが少なく荒らされていない。雪は重いが立木が少なくなかなかいい。
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 後方から「サーーーーーーッ」という音が聞こえる。緩んだざらめ雪が表層雪崩を起こしている。私が誘発したものだ。勾配は30度あるかないかというくらいで、雪崩が起きるぎりぎりの斜度。自然には起こらないが、外的な刺激をきっかけとして発生する。規模は小さく流速はゆっくりだが、延々と落ち続けている。前方にも、前の滑走者が起こしたデブリが見られる。流速が遅いので、一気に行けば追いつかれないだろうし、万が一巻き込まれても大事には至らないと思う。しかし、巻き込まれればコントロールできない状態で、せっかくため込んだポテンシャルエネルギーを消耗してしまうし、なにせ最後の一人なので万が一の場合周囲からのヘルプを期待できない。ターンをしないで斜滑降で様子を見る。黒倉山方面にトラバースしていくと雪面が安定してきた。もう大丈夫だ。ターンをして西ノ沢の谷に降りていく。余り踏み荒らされていない疎林の快適なツリーラン。尾根を下るよりも格段に楽しい。重いけれども緩んでやわらかい雪は滑りやすい。ちょっとした新雪気分だ。
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 完全に沢が出ているので、右岸を行く。ドウマン平に面した急斜面へと続いているスロープだ。下りは早い。前方が開けてきた。ドウマン平だ。ある程度標高を保ったまま登りで手こずった斜面の中腹に出る。が、木々のまばらな所は、尾根をピストンした先行者によって踏み散らかされている。しばらくトラバースして、余り踏み荒らされていないところを見つけ、そこを滑りドウマン平に降り立つ。次回があるかもしれないので、谷のうちにできるだけ標高を下げておいた方がいい、と覚えておこう。
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 のぼりと同様に少しショートカットした後は、延々と車道を行く。じっとしていたのでは板が全く走らないほど緩い勾配。でも、すり足で歩いていれば平地よりは速い。ノルディックスキーの持ち味を発揮できる。
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 温井に降りたら、朝並んでいたクルマはすっかりなくなっている。私のクルマ以外の1台は中にこもっている気配。これから帰路に就くのか、それとも明日の入山の前乗りか。
 予想通り朝のぬかるみはかなり乾いているが、それでも靴底に土がつくので、まずブーツを履き替え、アスファルトの上にクルマを移してから撤収する。

17.日本海側ロングドライブ
 さあ、長い帰路に就く。桜も菜の花もまだだが、夕暮れの里は春の気配でいっぱい。「おぼろ月夜」「春が来た」「春の小川」「故郷」などを作詞した高野辰之の生誕地が近い。まんが日本昔話に描かれた山のように、ぽこっとした形の高社山が風景によく似合っている。
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 上信越自動車道の豊田飯山I.C.は逆方向だ。国道290号線で蕎麦の里「富倉」の山村風景を見ながら、妙高市新井へ。妙高山など頸城の山々に見守られながら行く。
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 上越から乗ると300kmも高速道路を走らないといけない。これはきつい。やっぱりしばらく国道8号線を行こう。富山県の朝日までは市街地や信号が少ないので流れがよく、夕暮れの日本海を見ながら快適なドライブができる。それに引き替え、北陸自動車道の上越から親不知の区間はトンネルだらけで、ただでさえ閉塞感のある高速道路がより圧迫されるような感覚に追い込まれる。
 名立や越中境のゆずり車線で、ぶっ飛ばしたい大型トラックを先に行かせるが、結局朝日の信号待ちの列の並び順が入れ替わっただけ。
 以前に立ち寄ったことがある店でラーメンを食べて、朝日I.C.へ。富山・石川・福井県内の国道8号線は信号があって時間がかかるので、高速道路を使わないと帰宅が翌朝になってしまう。一度仮眠を兼ねて休憩。高速道路は200kmで挫折。南条I.C.で北陸自動車道を降りる。敦賀までは信号も交通量も少ない国道476号線でマイペースに行く。敦賀を過ぎたら、若狭梅街道、若狭西街道と広域農道を乗り継いで京都府へ。家まであと数kmのところで眠気を我慢できず、クルマを停めて仮眠。とにかく、最後まで事故を起こすわけにはいかない。暗くてよくわからないが、桜が咲いているようだ。今年は特に早いなあ。
 500kmを、休憩、食事、仮眠を含め9時間余り。飯山から宮津まで高速道路を走り続ければ2時間以上短縮できただろうが、それはきつい。やっぱりマイペースでいける方を選ぶ。
 自動車の走行距離は、全行程2000kmを超えた。

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2016/04/11

北国縦断被災地を巡る旅(4日目)

初 日 1.日本海から太平洋へ  2.田老「学ぶ防災」  3.宮古「末広館」
2日目 4.重茂半島の姉吉集落  5.城山から大槌を見下ろす  6.波板「風の電話
     7.釜石鵜住居と陸前高田  8.リアス唐桑ユースホステル

3日目 9.唐桑ビジターセンター「津波体験館」  10.気仙沼線と南三陸
     11.福島第一原発帰還困難区域へ  12.会津の里ユースホステル

■4日目 13.会津の雄国山  14.小千谷・山古志、新潟県中越地震の被災地へ
最終日 15.信濃川遡上信越ドライブ  16.信越トレイル鍋倉山  17.日本海側ロングドライブ

13.会津の雄国山
 6時過ぎにユースホステルを出発。7時ごろ出発するつもりだったが、早く目が覚めてしまった。旅では神経が高ぶっているようでいつも寝不足だ。会津盆地を北上。会津縦貫北道路を利用せず北北東に一直線に向かう道を行く。早朝なので、ほかにクルマは少なくすいすいと行く。昨夜は反対側から夕陽のシルエットとして見た磐梯山が、今度は朝日のシルエットとして浮かぶ。また、飯豊山がひときわ白い。
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 蔵に囲まれた小さな交差点で、雄国沼への道しるべにつられていくが、これが間違い。沼の西の金沢峠を目指す道だった。今は雪に閉ざされている。軌道修正して、大塩裏磐梯温泉でようやく予定の国道459号線に合流。せっかく早く出発したのに15分ほどロスしてしまった。今日もタイトなスケジュールなのだ。
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 標高をあげ、裏磐梯の檜原湖沿いへ出る。なんとすでに湖面の氷が解けている。ヘアピンカーブの先端にクルマを止める。なんとか雪はあるようだ。今日はスキーの出番だ。
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 準備を整え、7:35、雄子沢に沿って歩き出す。雄子沢から雄国沼をピストンするのは、四国のユースホステルで泊りあわせて以来の友人が開業した会津野ユースホステルのクロスカントリースキーのコース。25年前に四国を一緒に自転車で走った友人と、クロスカントリイースキーでここ歩いたのは16年前。そして、6年前にも単独でここを訪れている。レンタルのテレマークスキーから自前のテレマークスキーに道具が変わり、雄国沼だけでなく雄国山登頂も果たした。その時は雄子沢ピストンに雄国山登頂をくっつけただけの芸のないコース取りだった。今回は雄国山から尾根を縦走し、国道近くに戻ってから雄子沢に降り立つ予定できたのだが、雪がないねぇ。結局前回と同じ芸のないピストンコースを行くしかない。
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 スノーブリッジはなくなり、完全に沢が出ているので、飛び石の渡渉を2回。雄国沼が近づいてきたところで、谷が狭まって法面のトラバースをするやや注意が必要な区間がある。本来は1ケ所だけなのだが、そういう区間が2ケ所あった。つまり、片方はスノーブリッジを渡り、平坦な対岸を通過することができるのだが、今回は雪が少ないのでそうはいかないということのようだ。法面は雪が解けていて、板を外してブッシュの中をこいで行く。
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 それを越えると時期に雄国沼なのだが、沼を見ずに雄国山の斜面に取りつく。その前にシール装着だ。が、シールの長さが合わない。長すぎて余ってしまう。この板はステップソールが刻んであるのであまりシールを使わない。クルマに置いてきた方が、この板に合うシールだったようだ。さあ困った。ステップソールでは、この急こう配を登るのに大変な苦労をする。もちろん、クルマに戻るに遅すぎる。そうだ、ザックの中にガムテープがあった。これを貼ってなんとかシールを装着。トップに引っ掛ける金具が、今の丸っこい先端に合わずすぐ外れてしまうが、なんとか上ることができる。苦労しながら稜線に出た。そこから山頂は目と鼻の先。氷結した雄国沼が見渡せる。その向こうには磐梯山。背後を振り返ると飯豊の白い峰がかっこいい。
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 小休止したらシールを外して滑降開始。ただ、雪解けが進んでブッシュが現れ、雪が切れているところもある。それでも滑降は楽しい。時間がおしているので沼のほとりには下りずに登ったルートを戻る形で雄子沢へ。沢沿いも緩い下りなので、往路よりはやい。要注意区間の片方は、法面の下の方なら雪がつながっていて板を外さずに越えられた。エッジのあるスキーなら滑落の危険は少なくてこちらが楽だった。もう片方はやはり藪漕ぎで越えなければならなかった。
 12時ちょうどにクルマに戻った。
 急いでスキーを撤収しクルマを走らせる。13時過ぎに会津若松I.C.から磐越自動車道へ。

14.小千谷・山古志、新潟県中越地震の被災地へ
 磐越自動車道から北陸自動車道、関越自動車道と乗り継いで15時過ぎに小千谷I.C.。180㎞をちょうど2時間。想定通り。まずは、I.C.近くの「おちや震災ミュージアムそなえ館」へ。2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の被害やその後の復興の記録を展示し、防災意識を高めるための施設。
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 2002年夏、山古志村に近い小千谷市の東部に開業したばかりの「小千谷ふるさとの丘ユースホステル」を訪れた。マネージャーは、なんと数年前に別野ユースホステルで泊りあわせたサイクリストで、私のことを覚えていてくれた。以来毎年訪れていたのだが、2年後の震災で休業。その1年後に再開し、2006年5月に訪れている。そしてあっという間に10年のブランク。その間にできた震災を語り継ぐ施設を訪れるというわけだ。
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 まずは、専用シアターで映像を見る。そのあと「3時間後」「3日後」「3ヶ月後」「3年後」それぞれの部屋として、現場、避難所、仮設住宅での生活の様子などが展示されている。受付で持たされた端末を壁のセンサーに当てると、イヤホンから被災者の体験談が聞こえてきたり、画面に防災クイズが表示され答えることができたりする。要するに、マンツーマンガイドの役目を果たしてくれる端末だ。また、人工的に再現された地震の揺れを椅子に座って体感することができるものもある。神戸の「人と防災未来センター」にも同じようなものがあったが、訪れた時には見学者が多くて体験することができなかった。
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 45分で見学を終え、クルマで移動。山古志を目指す。道中、信濃川沿いの「妙見メモリアルパーク」も見学。ここは、大規模な山崩れが発生し、土砂がクルマを飲み込んだ。そのクルマの中から、数日後に子供が救出された場所だ。10年前に訪れた時は、まだ生々しい状態で、自動車ほどもある大きな岩の混じった土砂に道路も埋まったままだったが、今は一部その崩れた土砂が保存されているものの、切り通しで道路は開通していた。上の一番右の写真は、震災から1年半後の2006年5月のもの。
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 そなえ館から30分で、旧山古志村役場(現長岡市役所山古志支所)内の「やまこし復興交流館おたぽる」に到着。受付に行くとなんと展示は16時までとのこと。現在16時25分。しまった、17時までと思っていた。落胆していると、どこから来たのか聞かれ、遠路はるばる京都府からと答える。なんと、特別に見学させてくれるとのこと。行政の営む施設としてはなんと柔軟な対応。数人のスタッフは皆優しかった。ありがたい。
 ここのメインは、地形模型シアター。一種のプロジェクションマッピングといおうか。天井に向けて壁に設置されたプロジェクターからの映像が、天井の鏡で反射し、床に投影される。床には地形の凹凸を再現した真っ白な模型が置かれていて、これがスクリーンとなる。普段の植生の様子、地震の揺れ、土砂崩れであらわになった山肌、堰き止め湖ができた様子、雪が積もった銀世界、などが再現される。非常にわかりやすい。
 そして展示を見学。丁寧にお礼を言ってその場を去る。
 ほかにも、長岡と川口にも施設があるが、今回は小千谷と山古志の2ケ所だけ。小千谷ふるさとの丘ユースホステルが、小千谷と山古志の境界付近にあり、自転車で走ったなじみの深い土地の施設を選んだわけだが、施設の充実度からもこの2ケ所の選択で間違いなかったようだ。
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 さあ、最後に震央メモリアルパークを見に行こう。要するに、本震の震源だ。平らな土地がほとんど見当たらない山古志。傾斜地のの集落と棚田、そしてあとは山林だ。自転車で走ると、アップダウンの連続で距離の割に走りごたえがある。想定していた道は雪に閉ざされていたが、小千谷市に少し戻り、違うルートからなんとか通り抜けることができた。ただし、まだ冬季閉鎖の道。雪が少ない今年だからこの時期に行けたようだ。
 また、小千谷市の東部や山古志は、「牛の角突き」という牛同士を闘わせる闘牛が盛んな土地。道路の脇に大きな牛が3頭佇んでいた。そして、その陰には飼い主と思われるお父さん。牛が大きすぎて完全に隠れていた。
 ついでに言うと、コイの養殖も盛ん。おたぽるのエントランスホールには、コイの水槽があった。
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 川口町の山間部の棚田の中にひっそりと、震央を示すモニュメントが立っていた。夕日がもうすぐ沈む。白い峰々は、越後三山や平ヶ岳や巻機山なのだろうが、霞んでいてよく区別がつかない。
 国道17号線に降りて、小千谷に戻る。小千谷ふるさとの丘ユースホステルは本日休業のことなので、小千谷市街地の旅館に投宿。歓送迎会らしい宴会でにぎやか。宿泊客は少ないみたい。

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2016/04/10

北国縦断被災地を巡る旅(3日目)

初 日 1.日本海から太平洋へ  2.田老「学ぶ防災」  3.宮古「末広館」
2日目 4.重茂半島の姉吉集落  5.城山から大槌を見下ろす  6.波板「風の電話
     7.釜石鵜住居と陸前高田  8.リアス唐桑ユースホステル

■3日目 9.唐桑ビジターセンター「津波体験館」  10.気仙沼線と南三陸
     11.福島第一原発帰還困難区域へ  12.会津の里ユースホステル
4日目 13.会津の雄国山  14.小千谷・山古志、新潟県中越地震の被災地へ
最終日 15.信濃川遡上信越ドライブ  16.信越トレイル鍋倉山  17.日本海側ロングドライブ
9.唐桑ビジターセンター「津波体験館」
 薪ストーブのが暖かい食堂の隣には、囲炉裏(こちらには火は入っていないが)の談話室。ハード面もソフト面もあたたかい感じがするユースホステルだ。いい宿見つけた、という感じ。また、本州最東端を訪れるときにはここに泊まろう。
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 リアス唐桑ユースホステルを8時過ぎに出発。半島の先端は御崎とかいて「おさき」と読む。そこのビジターセンター内の「津波体験館」まで4km。8時半の開館時間ちょうどに入館。2人の女性スタッフが笑顔で迎えてくれる。「JAFの会員の方は300円です」と言われ会員証を出すと、なんと有効期限は本日まで。「ラッキーですね」とフレンドリーなスタッフ。ここは、元々昭和、明治の三陸沖地震での津浪の記録を展示する施設だったが、2011年の東日本大震災の内容を追加し、2013年5月にリニューアルしている。
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 まずは映像と音声を軸に床の振動と送風を組み合わせた疑似体験のできるシアター、次に被害の様子と復興の足取りをドローンを駆使して撮影された3D映像、と畳み掛けられる。後者は3D眼鏡をかけて見るのだが、中には3D撮影されていない普通の映像も含まれていた。専用眼鏡をかけてそのつもりで見ているので、つい全部が3Dと思ってしまう。
 ほかにも、水槽の中で津波を発生させて陸地に押し寄せる様子を見せる模型もあり、豊富な写真もあり、なかなか見ごたえがあった。もちろん、ビジターセンターなので津波以外にも唐桑半島(旧唐桑町)を紹介する展示もある。1時間以上かけて見学し、御崎神社に参拝してから、移動開始。
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10.気仙沼線と南三陸
 復興の工事車両などで混雑する国道45号線を南下。昨夜の雨は止んで海が青く輝く。国道に沿ったJR気仙沼線はいまだ高架橋や駅舎は津波により破壊されたまま、復旧していない。一部区間ではBRT(バス・ラピッド・トランジット:バス高速輸送システム)として暫定復旧し、さらにその一部は鉄道路線を舗装して専用道路としている。
 南三陸(志津川)は陸前高田に匹敵する大規模なかさ上げ工事の真っ最中だった。
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 北上川を渡って桃生津山I.C.から三陸自動車道に乗る。ずっと無料区間ばかりだったが、途中からは有料区間になる。石巻や松島や仙台の混雑区間なのでお金を払う価値はあるというわけだ。有料区間に入るとぐっと交通量が減る。更地が広がる仙台の荒浜や、名取の閖上などを左に見ながら行く。右手には市街地の奥に白い峰々。蔵王連峰だ。

11.福島第一原発帰還困難区域へ
 いつしか常磐自動車道に変わり、阿武隈高地の縁を行く。標高100mを超える丘陵地帯だ。電光掲示板に示されているのは、この先、相馬~広野の空間放射線量。0.1~4.0マイクロシーベルト/時と大まか。0.1なら丹後と同じくらいだが、4.0はちょっと高めだ。
 相馬I.C.で常磐自動車道を降りて、まずは国道6号線でガソリン補給。海沿いの県道74号線で南下。3年前に自転車で走った道だ。磯部の小学校にあるモニタリングポストによると0.078マイクロシーベルト/時。借りて持参してきた線量計では0.129。この後も他の場所で何度か比べてみたが、大体手元の線量計の方が数値が高く出るようだった。
 丘を越えて南相馬市へ。3年前には、家の基礎のコンクリートがかつて集落があったことを忍ばせたが、今は完全な更地となっている。
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 鹿島で国道6号線に戻り、原ノ町を越えて南下。3年前もそうだったが、津波被害のなかった原ノ町市街は普通ににぎわった雰囲気。また、カメラや集音マイクなどテレビ撮影の機材を持った集団のあとから、馬が歩いてきた。そういえば、ここは野馬追の地だが、その馬と野馬追が関係あるのかどうかはわからない。
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 小高区に入ると少し雰囲気が変わる。ここは避難指示解除準備区域。日中の立ち入りは許可されているが、宿泊はできない。3年前と変わらない状況だ。ただ、日中の立ち入りが許されて間もなかったころは、道路沿いの田んぼにはがれきが散乱し、歩道の柵などが破損したままだったが、がれきはほとんど撤去され、柵も壊れた部分新い物に置き換えられている。それでもまだ置き去りにされている廃車がわずかに見られる。
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 ちょうど3年前にお手伝いに訪れた2軒に立ち寄ってみるが、どちらも人の気配はない。片方は、稲作の再開の見込みのない田んぼを、太陽光発電所として再生するための工事のお手伝いをしたのだが、その発電所は稼働しているようだった。用水路に入っている人々は、除染の作業員だ。
 浪江町へと入る。3年前は避難指示区域で入ることができなかった。さらに言うと、3年前私がお手伝いを終えた翌日から避難指示解除準備区域となった。日中の立ち入りが許されてから丁度3年がたったわけだが、店はほとんど営業していない。家の周りも草ぼうぼうだ。
 そして、双葉町に入り帰還困難区域に突入。高速道路や国道6号線は通行可能となったが自動車のみ。二輪車や軽車両や歩行者は通行禁止。区間の入り口には人が立って監視している。民家や店舗の入り口は完全にバリケードでふさがれ、脇道もバリケードが設置され人が立ち許可車両がチェックを受けるようになっている。信号は黄色の点滅だ。
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 帰還困難区域に入った途端線量計の数値の変化が激しくなっている。時折、1マイクロシーベルト/時を越える。市街地は低く、町が途切れたら高い傾向だ。
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 突如、線量計からピーピーとアラートが鳴り始めた。いつしか福島第一原発に最接近していた。敷地から1km、原子炉から2㎞だ。線量計の数値は、8マイクロシーベルト/時前後を指している。左手には、木々に覆われた丘の向こうに原発の施設と思われる鉄塔が数本突き出していた。
 窓を閉め切っているので、車内は温室となって熱い。西日を浴びながら人気のない大熊町のバリケードの市街地を抜ける。富岡町へと入り人が立っている帰還困難区域の南限を越えて、クルマの窓を開ける。海に背を向け西に進路をとり、中心街を行く。
 富岡町は、日中の立ち入りが許可されているが、避難解除準備区域より一段階きつい居住制限区域。ちなみに飯舘村もこれにあたる。バリケードはないが、どの家にも人の気配がなく閑散としている。学校があったが、校庭は草原になりつつあるようだ。
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 再び大熊町の帰還困難区域に入る。帰還困難区域周辺には「スクリーニング場」という施設がいくつもあった。避難している住民が制限区域の自宅に一時帰宅する際の放射線量を管理するための施設とのことだ。家に残していたものを持ち出す際には、放射線量のチェックを受けるというわけだ。
 国道288号線に入り阿武隈高地を越えると空間放射線量は、丹後と変わらない数値となる。田村市の旧三春町では有名な滝桜に寄り道。樹齢1000年を超えるというしだれ桜は全国的に有名で、「滝桜まで2.5㎞、渋滞時は3時間」などといった臨時の案内板が小刻みに立っている。今はまだ咲いていないので、クルマがほとんど走っていない田舎道をすいすいと行く。松葉づえをつくような古木だが、大きくて立派だった。
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 郡山が近づくと右前方に立派な山が見えてきた。安達太良山だ。混雑する郡山市内でものすごく遅い昼食のラーメンを食べて、東北自動車道郡山I.C.からジャンクションを経て磐越自動車道へ。

12.会津の里ユースホステル
 磐梯山のシルエットを正面に見ながら会津へ。会津若松I.C.で磐越自動車道を降りて、会津縦貫北道路へ。これは国道121号線のバイパスで無料で通行できる。喜多方への中間点、塩川I.C.で降りるとすぐに会津の里ユースホステル。チェックイン20時までとのことだが、19時過ぎに到着。本業の酒屋でチェックイン。
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 ここは古いユースホステルで、25年前の大学生の時に泊まっている。正直言うと、当時はあまり印象がなかった。たとえば予約の電話では、名前も確認されないだとか、朝はとっとと出ていけとばかりに扉を開け放たれる(晩秋の寒い時期に「開けたままにしといて」と言われた)など、つっけんどんな対応だった。その後、近くに友人が会津野ユースホステルを開業したこともあり、会津の里ユースホステルに泊まることはなかった。いくら酒屋の副業とはいえ、ネットでの厳しい口コミの風当たりもある。廃業していくユースホステルが多い中で、ずっと続いているのはすごい。そして、近年いい評判も聞こえるようになった。予想通り、マネージャーは代替わりしていた。今日は素泊まりだが、25年前にはなかった食事の提供もある。古民家の建物には民芸品や民具などが飾られ、会津の雰囲気を出している。
 この日のホステラーは私一人。歩いてすぐの温泉施設で入浴し、明日の朝の食料の買い出しや夕食を済ませる。せっかくここまで来たけど喜多方ラーメンにはありつけなかった。 

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2016/04/09

北国縦断被災地を巡る旅(2日目)

初 日 1.日本海から太平洋へ  2.田老「学ぶ防災」  3.宮古「末広館」
■2日目 4.重茂半島の姉吉集落  5.城山から大槌を見下ろす  6.波板「風の電話
     7.釜石鵜住居と陸前高田  8.リアス唐桑ユースホステル
3日目 9.唐桑ビジターセンター「津波体験館」  10.気仙沼線と南三陸
     11.福島第一原発帰還困難区域へ  12.会津の里ユースホステル

4日目 13.会津の雄国山  14.小千谷・山古志、新潟県中越地震の被災地へ
最終日 15.信濃川遡上信越ドライブ  16.信越トレイル鍋倉山  17.日本海側ロングドライブ

4.重茂半島の姉吉集落
 7時に宿の朝食を頂く。食堂の他の席はすでに片付いている。十数名の私以外の宿泊客は、皆復興の仕事に来ている作業員だった。彼らがどんどん出発して行く。
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 8時前に私も出発。宮古湾を回りこんで重茂半島へ。海沿いはどこもかさ上げ、築堤の工事が延々と続いている。細い道で宮古湾から太平洋への峠越え。さらに小さな岬越えのアップダウンが延々と続く。木々の間に除く太平洋が青く広く美しい。小さな集落をいくつか超える。山の中の集落に漁協がある。GPSレシーバーを見れば、標高は70m。すぐに道は急激に下って港に降り立った。津波のことを考えて集落が作られている。
 まさに奥の細道を越えて姉吉の集落へ到着。ここも標高60m以上の山間集落だ。でも、漁師集落。港への細道を行くと、「ここより下に家を建てるな」の大津浪記念碑。そのすぐ下に5年前の津波の到達点を示す石碑。そこからダーッと下って港へ降り立った。再開を間近に控えたきれいなキャンプ場にクルマを停めて自転車を下ろす。
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 標高ゼロメートルの港からスタート。キャンプ場を越えるとすぐにごつごつとした岩肌にはさまれ急な沢沿いの細道となる。標高50mを越えてすぐに二つの石碑を見送り、姉吉集落へ。ヘルメットに装着したカメラを起動し、動画を撮影しながら下る。集落と石碑、そして渓谷からの海の景色の流れをノーカットで納める。
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 自転車をクルマに積んで、再開間近のキャンプ場を後にする。私が出たり入ったりする間に数名集まってきたキャンプ場関係者(あるいは建設関係者)と思われる作業服の男性たちは、笑顔で挨拶してくれて気持ちがいい。よそでは無言のまま怪訝そうな目で見られることが多いのに。
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 小さな立て看板に目が留まった。なに「本州最東端?(とど)ヶ崎」だと。姉吉港から徒歩で行くようだ。後で調べたら徒歩の所要時間は1時間程とのこと。ああ、行きたいではないか。知っていれば行く計画を立てていたのに。今日も大明日もこの後スケジュールが推しているし、なにせもうクルマで走り出してしまっている。後ろ髪をひかれる思いで、クルマを走らせる。

5.城山から大槌を見下ろす
 重茂半島は秘境だった。行けども行けども続く断崖絶壁の海岸線。たまに現れる傾斜地の集落。やっとの思いで山田湾沿いへ到達。道路の建設工事で仮設の道をグネグネと行く。国道45号線に乗るとダンプカ-が相変わらず多い。三陸自動車道で山田の市街地をワープして、船越湾から大槌湾へとリアス式海岸を南下。
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 2層のプレハブ店舗が並ぶ大槌の復興商店街は大賑わい。駐車場も7~8割埋まり、クルマの出入りが激しい。とりあえずそこで作戦タイム。商店街から見上げる城山に自転車で上るのだ。
 大槌川と小槌川が北西から南東へと並行して流れ、合流するように大槌湾にそそいでいる。その河口部分が大槌の中心街。二つの川を分ける尾根の先端が城山。標高は141mあり、市街地あるいは市街地だった狭い平野部を俯瞰することができる。
 尾根の先端から上ることができる。急な登りだ。そしてその名の通りかつて山城のあった城山からは、尾根の両側にダブルトラックがついている。南の小槌川のダブルトラックで下山することに決め、クルマで移動。かさ上げ工事でどこをどう取っていいのか迷いながら行く。尾根の先端の登り口には津波の後移転した役場の庁舎がある。そこの駐車場は満車。数百m離れた更地の駐車場にクルマを止める。こちらが職員用、庁舎の敷地内が来庁者用かも知れない。
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 自転車を下してスタート。役場を過ぎたらいきなり急な登りが始まる。中腹には図書館など公民館のような施設。更地となった大槌の海沿いの風景が広がる。
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 短いが急な登りに一汗かいて、城山に到着。津波遺構の旧庁舎は尾根の先端に隠れて見えない。先端にも展望台があるが、そこまで行く気力がわかなかった。先ほどの復興商店街は足元によく見える。移転先の庁舎は見えないが、駐車場の自分の車見える。
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 数か所の展望所で景色を眺めたら、さあ尾根に沿ったダブルトラックへ。予定の小槌側川の道はすぐに未舗装となり、下った後に上りかえしもあるアップダウンの連続。先の方は工事の重機が見える。現在工事しているようには見えないが、不安なので引き返すことにする。そして、大槌川側のダブルトラックへ。こちらは舗装道路でしばらく高度を保ってから、林間に入って急激に下る。そして以前からの民家や復興公営住宅が立ち並ぶ集落へ降り立つ。復興商店街近くを通り国道を超えると、かさ上げ工事の真っただ中を行く。廃墟となった旧役場庁舎を横目に、クルマを止めた駐車場へ。海から1km近く内陸に入ったこの場所でも2階くらいの高さまでかさ上げされるようで、要するに道の両側は土の壁というわけだ。
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 さあ、時間が推している。急いでクルマに自転車を積む。快晴だった空は、いつしか雲に覆われ始めた。予報通り夕方は雨になるのか。

6.波板「風の電話」
 大槌の商業施設のフードコートで遅い昼食の後、吉里吉里へと戻る。先日のNHKスペシャルで取り上げられた「風の電話」を訪ねる。海を見下ろす高台にある電話ボックス。中のダイヤル式の黒電話破線が途切れてどこにもつながらない。もともとはそこに住むガーデンデザイナーが知人の一周忌に自分の庭に設置しようと思いついた。故人とつながることができるきっかけとして。直後に東日本大震災。多くの人が親しい人を亡くした。誰でも訪れることができるようにしたという。
 ただし、人を積極的に受け入れているわけではなく、道案内の標識などはない。手がかりはあまりない。NHKスペシャルでは大槌といわれていたが、携帯電話で検索して見つかった情報によると吉里吉里とのこと。また、NHKスペシャルの映像では駅のすぐわきの踏切を越えて山手に入っていく。
 吉里吉里駅の近くに来たが、道が狭くて自由がきかないクルマを適当なところに止めて歩いて探す。なかなか見つからない。庭で子供を遊ばせているお母さんたちに聞くと、吉里吉里ではなく波板とのこと。
 再びクルマで山田方面に戻る。山田町との町境の手前が波板地区。まだ鉄道が復旧していない駅の風景は映像とぴったり同じ。船越湾の形もこちらの方がしっくりくる。クルマを止めてしばし歩き回ってようやく見つけた。撮影は禁止。懐かしいダイヤルで自分の家の電話番号を回してみる。何も聞こえない受話器を耳に当て、しばし過ごす。おいてあるノートに自分の住所と名前を記帳して、その場を去る。雨が降ってきた。

7.釜石鵜住居と陸前高田
 大槌を越えて南下、鵜住居へ寄る。遠野まごころネットとのつながりが強い地域で、2011年夏、2012年春夏と復興のお手伝いをした土地だ。蓬莱館という旅館、港など懐かしい風景もみられるが、3階にクルマが突っ込んでいた小学校はすでに撤去済み。かさ上げ工事も行われていてかなり変わっているという印象だった。
 両石の津波記念碑の周囲も工事中。
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 三陸自動車道で大船渡をワープして陸前高田へ。ここも大規模なかさ上げ工事の最中。街全体が焼失した陸前高田では、まるで鉱山のような(あるいはもっと大規模な)ベルトコンベアで周囲の山から土砂を運んだとのこと。現在もそのベルトコンベアの跡形が残る。
 駅などのあった中心街の対岸、つまり気仙川の西に位置する気仙町へ。2012年夏に2年ぶりに復活する夏祭りの会場の整備のお手伝いをした土地だ。震災直後人々が避難生活をした高台のお寺は残っているが、あとはずいぶん変わっている。かさ上げ工事はまだ始まって以外が、その準備のため残っていた建物がほとんど撤去されている。遠くに一本松が見える。
 日没、そして雨のため暗くなってきた。クルマに乗り込む。工事のため通行が制限されて一本松には寄れなかった。本当は行く道があるのかもしれないが、時間もないし暗いので見つけられなかったのかもしれない。
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8.リアス唐桑ユースホステル
 岩手県から宮城県へと入り、唐桑半島へ。午前中の重茂ほど秘境ではなく、ローソンとセブンイレブンが相対峙しているし、センターラインがある立派な道路が続いていた。暗くなってきて心配したが、大きな看板があってリアス唐桑ユースホステルには問題なく到着。もしかするとひとりきりかと思ったが、ちゃんとほかにもホステラーが泊っていた。頑張っているユースホステルだ。
 私と同様、かつてボランティアで北東北のその後を見に来たという関東からの2人組。震災の翌日から被災地で活動した元自衛官という現在復興の仕事で来ている作業員などがいて、ヘルパーさんもボランティアをしていたという。

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2016/04/08

北国縦断被災地を巡る旅(初日)

■初 日 1.日本海から太平洋へ  2.田老「学ぶ防災」  3.宮古「末広館」
2日目 4.重茂半島の姉吉集落  5.城山から大槌を見下ろす  6.波板「風の電話
     7.釜石鵜住居と陸前高田  8.リアス唐桑ユースホステル

3日目 9.唐桑ビジターセンター「津波体験館」  10.気仙沼線と南三陸
     11.福島第一原発帰還困難区域へ  12.会津の里ユースホステル

4日目 13.会津の雄国山  14.小千谷・山古志、新潟県中越地震の被災地へ
最終日 15.信濃川遡上信越ドライブ  16.信越トレイル鍋倉山  17.日本海側ロングドライブ

1.日本海から太平洋へ
 3月29日、秋田に上陸。フェリーを降りたら、東にクルマを走らせる。旧協和町(大仙市)までの国道13号線は、ボランティア活動の拠点のひとつがある遠野を目指して何度か通った道。この日は、国道46号線へと左折、やや北よりに進路を変える。東日本大震災から5年。被災地を見に行く。2011~2012年にボランティアで訪れた釜石や陸前高田以外に、今回は田老(宮古市)なども訪れる。
 せっかくなので角館では武家屋敷を軽く見学。アプローチもただの移動ではもったいない。そのあと秋田新幹線に追い越されつつ北東へ。立派な白い峰が見えてきた。秋田駒ケ岳だ。平野部はすっかり雪解けだが、山はまだ真っ白。今の時期が一番山が美しい時期なのかもしれない。ちなみに一年前の今頃はひたすら富士山を見ていた。今回の旅では、色々な白い名山を見ることになる。その一つ目が、秋田駒ケ岳だ。
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 県境の峠には、周囲に残雪が見られた。盛岡のある北上盆地に降りると、今度は岩手山。思わずコンビニの駐車場に滑り込む。秋田駒ケ岳から岩手山へと白い峰が続く奥羽山脈の絶景が広がる。秋田駒ケ岳は、岩手側からだと随分なだらかな姿に見える。その名の通り、秋田側から見るほうが迫力がある。
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 盛岡市街を抜け、国道455号線で北上山地を越える。山間部には残雪。ダム湖はまだ氷結。でも、日差しを受けてクルマの中はぽかぽか。窓を開けずにはいられない。
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 岩泉町の三田貝の道の駅は学校をイメージしたもの。廃校となった分校の跡地とのこと。「めだかの学校」が流れ、時折「キーンコーンカーンコーン」とチャイムが鳴っている。
 三田貝川から小本川とひたすら川沿いを進み、三陸鉄道北リアス線岩泉小本駅へ。日本海側から太平洋側へと横断完了だ。小本から開通している自動車専用道路で田野畑南I.C.まで北上し、島越海岸へ。断崖に囲まれた漁港は、まさに秘境だ。
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 かさ上げされた高台には、完成してからまだ半年しか建っていないピカピカの駅舎。中には震災以後の復興の足取りを写した写真が展示してあった。また駅舎のすぐ下には、津波に打たれて傷んだ宮沢賢治の詩碑と旧駅舎よりホームへ向かう階段が震災遺構として保存されていた。
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2.田老「学ぶ防災」
 小本に戻りさらに南下。国道は復興のトラックやダンプカーが数珠繋ぎだ。13:45田老駅に到着。約束の14時に「学ぶ防災」のガイドさんがやってきた。学ぶ防災とは、一般社団法人「宮古観光文化交流協会」が運営する、田老の町を見学しながら防災意識を高めるためのツアーだ。
 ガイドさんが乗ってきたクルマに同乗して、防潮堤、港、震災遺構の「たろう観光ホテル」、高台に建設が進んでいる新しい集落などを見て回り、最後に「学ぶ防災」の事務局のある民家で震災当日の映像(TV等では使われていない、ここに来ないと見られないもの)を見る。本来30~60分のとことだが、みっちり100分もお話を聞かせてもらった。5年前の2011年3月11日、子どもを持つ母親としての震災体験談も話してもらった。
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 田老駅でガイドさんと別れたあと、クルマから自転車を下ろして見学した場所をもう一度回り、動画と静止画をじっくりと撮影する。漁連の製氷施設の天辺近くに今回の津波の高さ17.5mを示す表示があった。ビルの4~5階の高さだ。木っ端微塵に砕かれた第2、第3防潮堤はそもそも津波でなく高潮を防ぐためもの。唯一、津波を想定し生き残った第1防潮堤の上も自転車で走った。ただ、この防潮堤も、津波を止めるのでなく、あくまでやわらげて避難するための時間を稼ぐためのもの。なのに、人々はこの防潮堤たちを過信し、すぐそばに、あるいは外側に家を建て、さらに津波の目隠しとなって逃げ遅れてしまうという副作用も生んだかも知れないとのこと。
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3.宮古「末広館」
 宮古市街へ移動。市街地が近づくと夕方の混雑。駅前の旅館「末広館」に投宿。
 この旅館はかつてユースホステルも併せて営業していた。サイクルスポーツ誌2010年11月号にこの宿のことが掲載されている。私と同い年の自転車で旅するエッセイスト、石田ゆうすけ氏の連載「僕の細道」だ。当時はまだユースホステルとしても営業していて、84歳のお母さんの「昔は自転車のホステラーも多かった。自分でもやらなければわからないと思い、30歳の時自転車で三陸を走ってみた。きつかったわぁ」という言葉に惹かれてこの宿に泊まることを決めた。
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 しかし行ってみるとそのお母さんらしき人の姿はない。聞けば3年ほど前に亡くなったとのこと。6年前に84歳だから、まあそういうことも覚悟していなかったわけではない。ユースホステルをやめたのは、代替わりによることだったのかもしれない。先程のビデオには、すぐそばに迫る津波に気付かずに、のんびりと歩く人の姿もおさめられていた。
 5年前の津波で被災しながらも、復興支援に駆けつけた人が泊めるために早くから営業を再開させた、と聞いている。当時まだご健在だった先代のお母さんの姿がしのばれる(会ったこともないくせに)。
 「僕の細道」の記事を読み返せば、明治と昭和の津波の話も出てくる。そして、私と同じように、防潮堤の上を自転車で走っている。ただ、記事に掲載された写真では防潮堤の両側に家並みが広がっていた。

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