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2009/12/31

三春峠と丹波の国巡り

 兵庫県、京都府ときいて、山陰、日本海、雪を思い浮かべる人は少ない。その二つの府県の中央部に位置するのは、明治の廃藩置県よりも前には「丹波の国」と呼ばれていた地域。その丹波の国の東側三分の二は京都府に、西側三分の一は兵庫県に組み入れられた。また丹波の国は、日本を日本海側と太平洋側に分ける「中央分水界」を跨いでいる。中央分水界は日本の背骨とも言える境界線で、その多くは旧国境、現在の県境か、そのすぐ近くを通っている。丹波のようにそのエリアのど真ん中を中央分水界が横切っているパターンは少なく、旧国名で言うと飛騨、信濃、岩代(福島県西部)、そして陸奥(青森県)くらいである。飛騨、信濃はそれ自体が山岳地帯である。東北の国は広すぎるため、「岩代」よりもその日本海側に当たる「会津」というエリア名の方がなじみが深いし、陸奥は本州の末端に位置する特殊な国である。
 話を戻して、「中央分水界」は「中央分水嶺」とも呼ばれ、一般的には山脈の稜線である。水の流れだけでなく、人々の流れも分断していたのである。ところが、丹波の中央分水界、特に兵庫県内を含む西半分は険しい山岳地帯ではない。日本海に注ぐ由良川と瀬戸内海に流れる加古川の水系が入り乱れ、その境目は小さな峠であったり、あるいは同じ谷にある「谷中分水界」、さらには同じ川から流れが分かれる「水中分水界」が存在する。日本(本州)で一番標高の低い中央分水界もこのエリアにある。絶対的な境目はなく、囲碁終盤の「寄せ」の応酬のように、相手の弱いところにじわじわ進入して自分の「地所」を広げる由良川と加古川の対局によってできた分水界である。
 人の流れで言えば、かつての山陰道もここを通っていた。丹波一国をまとめあげる大名は現れず、亀山(亀岡)、福知山、篠山などの七藩に分かれていたという。明治政府の廃藩置県、そしてその後の1871年の府県統合により、丹波は東西に分断され、東半分は京都府に、西半分は久美浜県を経て豊岡県となった。そして、1876年の第二次府県統合で、豊岡県が分断、旧丹後の国と丹波のうちの天田郡(現在の福知山市)が京都府、但馬と現在の兵庫県内の丹波が兵庫県に統合された。丹波の国は、府県統合の度に分断、境界が引かれなおした。ちなみに第二次府県統合の際、今の兵庫県がほぼ形成されたのだが、ここには明治新政府の国家戦略が見えるという。開国によって全国に開かれた港のうちの一つ神戸は、当時はまだ村だった。鎖国によって遅れていた日本の国力を発展させるために、港を整備し神戸を国際貿易都市とする必要があった。そのために摂津の西半分を大阪と分けて兵庫県とした。摂津の西半分だけでは基盤となる産業がない。そこで輸出して外貨を稼ぐための生糸や絹織物を生産地である但馬を含む豊岡県と、米・塩・しょう油などの生産が盛んで多額の税収が見込める飾磨県(播磨)を統合して新しい兵庫県が誕生した。伝統ある地域、そしてその産業が国策によって強制的にまとめ上げられた大きな県の東の端にある小さな港(風土も住民の気質も違う遙か遠い地)を日本2位の貿易港、人口日本6位の都市に育てたのである。
 ありゃりゃ、これは脱線してしまった。
 というわけで、前置きがずいぶん長くなってしまったが、地形的かつ歴史的に、境界線が入り乱れたり、引かれなおしたりしてはっきりしない土地が丹波であるということが言いたかったのだ。

 12月28日、御用納めのあと正午過ぎに京丹後を発つ。丹後は冷たい雨。朝から薄暗い。でも、降雨レーダーは沿岸部のみの雨であることをはっきり示している。南は走れる。実際、与謝野町加悦地区で既に雨は小降り、与謝峠を越えて福知山盆地に降り立てば雲は切れ青空が見え始めた。
 宝製麺でうどんを食べて、R9を南下、旧三和町役場(現在は福知山市役所の支庁)にクルマを止めて自転車をおろす。ここまでくれば、空は真っ青。冬晴れ、快晴である。ひとことで冬型の気圧配置といっても、寒気団の勢力、日本海の季節風の強さなどによって、降水と冬晴れの境目はその時々で変わってくるのだ。
 今日の自転車は、先日岩屋山に登ったVIGOREランドナー改パスハンター。ただし今日は全面舗装、雪道の心配もないのでブロックタイヤは不要。そこで1年前にラインナップに加わったもう一台のVIGOREランドナーのホイールを使う。同じリム、同じフリーギアで組まれているのでホイールの互換はきくはず。自転車ごと変える手もあるのだが、最後に峠の下りが待っているのでドロップハンドルでなく横一文字のハンドルに交換したパスハンターの方がブレーキがかけやすい。寒い時期には特に重要だ。
 とりあえず府道(県道)59号線を西に進み、兵庫県へ行きたいのだが、芦渕交差点までの約1km、交通量の多いR9を通りたくない。支庁の横から延びる、まだ地図に描かれていない新しい道は、府道59号線につながっているように思われる。こちらに行ってみよう。
 まだ新しいアスファルトの道は登りやがて高台の「井の奥公園」という施設がある。駐車場とトイレと芝生とちょっとした遊具があるだけかと思ったら、見下ろす谷にはアスレチックや遊歩道などが敷かれた広大な敷地が見えた。その奥に三和の集落も見渡せる。
 その後一気に下って予想通り府道59号線に突き当たった。由良川水系の土師川の支流に沿って草山集落、戸平と初冬の低い日差しを浴びる静かな農村が続く。しかしその集落の間には京都・兵庫の府県境。戸平集落を越えてから戸平峠へ向けての登りが始まる。ひと登りでトンネルへ。手前の法面やトンネル入り口はまるで鉄の赤錆のような色合い。コンクリートなのに。近づくと赤茶色の苔だった。
 この峠は、同じ由良川水系ながら土師川支流と竹田川支流の分水界でもある。でもなぜ峠が府県境とならなかったのだろう。トンネルもありクルマで越えればとるに足らない峠だが、戸平集落の子供(今はいないだろうが)が通学するにはむしろ越境した方が楽、そんな府県境の引き方である。ちなみに、少し東の県道710号線、509号線の箱部峠と府県境の関係も同じような感じであるし、そのさらに東の県道97号線を走っても地形的根拠不明の府県境を通過する。
 トンネルを越えると竹田川の作る盆地の隅の谷に降りる。旧市島町主要部のある谷である。くどいようだが、府県境でない峠を越えることで雰囲気ががらりと変わる。
 広い谷を下って行くに連れ集落が大きくなっていく。新しいバイパスをさけ、集落内の狭い道を選ぶ。この辺りは立派な古い家が多い。庭の面積は狭くても石が積まれ日本庭園風に整えられている。また庭の片隅に神棚のような小さな祠がおかれている家がいくつもある。立派な門構えの家々は壁を朱く塗られているのが特徴である。先ほどのトンネルの苔のような色合いだ。
 やがてかつての町境を越え旧春日町へ。竹田川本流の谷に出ると、谷の東端を県道138号線で南下。
 竹田川の谷が南北から東西へ向きを変える地点にくると、多紀連山が屏風のようにそびえ立つ。正面にはごつごつした三尾山。ずっと左手、つまり東方向には三嶽と西ヶ嶽も見える。
 多紀連山を右手に見ながら東に走り、下三井庄(しもみのしょう)から北東へ軌道修正、三春峠へと迫っていく。上三井庄で三宝(みたから)ダムを右手に見ながら進む。バイパスをさけ集落に入ると造園の事務所とその自宅。この地方ではたくさん需要がある産業なので立派な建物だ。
 さあいよいよ日が傾いてきた。三春峠到着と落日と競争みたいだ。峠の手前の最後の一軒家もまた立派な庭を持つ農家。それを越えたら林間にはいり、やがて稜線が近づき先ほど走ってきた多紀連山北麓、竹田川の谷が見下ろせるようになる。辺りの景色のうち夕日に照らされた部分が赤く染まっている。
 峠到着と日没は同時だった。三尾山の東の稜線に日がかかり、竹田川が夕日を反射している。三和と春日の境をなす三春峠は珍しくはっきりした境界。中間着を着込み、手袋を変えて、ここから京都府側に一気に下る。北側は空が暗い。この太陽が最も南よりに沈む時期であるからでもあるが、峠の北側の空は先ほどの夕日が嘘のように雲に覆われている。冷たい雨と冬晴れの境界線も、ずいぶん南下してきているようだ。
 峠からしばらく下ったところの尾根を巻くヘアピンカーブから見下ろす眺めはダイナミック。遙か下の谷底に民家と街灯の明かりが見える。真っ暗になるまでに下ってしまいたい。
 キーッ、とブレーキが鳴く。リムとの相性か。ブレーキシューもすり減っているから交換した方がいいかも知れない。
 一気に谷底まで下って最初の一軒家は、やはり立派な門構えと庭を持つ。今は府県が別でも、かつては同じ丹波の国、そして明治初めの5年ほどは同じ県だったエリア。
 マジックアワー(残照時間帯)が終わり、暗くなってきたのでライトを灯す。下り基調を一気に飛ばせば、谷は広がり山村から田んぼの広がる農村へと風景が変わっていく。やがてR9に合流。三和支所はすぐだ。
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